トラ -食物連鎖の頂点に立つ最強の動物-

話題一般

新年あけましておめでとうございます。

2022年 寅年 トラの話

トラはアジアの密林の中で王と称され食物連鎖の頂点に立つ最強の動物です。
トラは1種で生息地ごとに体の模様や体格等が異なることから9亜種に分類し、このうち3亜種はすでに絶滅し現在6亜種が生存しています。一番大型の亜種・アムールトラ(又はシベリアトラ)は体長2.5〜3m、体重180〜250kg、また、記録によれば体重が最大384㎏の報告があります。シベリア東部から中国東北部の森林に生息し、現在、野生の生息数は約600頭と推測されています。生息域は熱帯雨林、サバンナ、マングローブの湿原、ヒマヤラの4000mの高地でも稀に見られるなど、隠れ場所と水場、獲物さえいればどこにでも生息できるのです。狩りはネコ科特有の爪が引っ込めることができるため巨体にもかかわらず足音がしません。ジャングルに潜めば体の模様が叢林に溶け込みカモフラージュして獲物に近づく事が可能です。強力な前足の一撃は時に水牛の腰骨を砕き、強力な咬力で喉をしっかり咥えて窒息死させます。餌の対象となるのは、水牛、ヒグマ、イノシシ、ヘラジカ、仔ゾウ、サルからワニ、ヘビ、鳥と手当たり次第で小型から大型まで生息地にいるすべての動物が餌となります。

アジアでは漢方薬の原料や毛皮をとるために密猟されており、WWFは野生のトラを守るべく生息地で保護活動を行っています。現在、IUCN(国際自然保護連合)はアムールトラを、近い将来に野生での絶滅の危険性が高い種として絶滅危惧種(EN: Endangered D)に指定して保護しています。

動物園の体験記

一方、動物園では、血統登録制度を設け個体管理を行っています。国際的な血統登録はドイツのライプチヒ動物園のピーター・ミューラー氏が担当し、毎年世界中の飼育園館に出生、移動、死亡等を問い合わせ、登録書を更新しています。そして、近交係数が高くならないように配慮して繁殖計画を作成しております。

上野動物園で飼育中のトラは、スマトラ島に生息する最小の亜種。体格はアムールトラより一回り小型で、体長1.4〜1.6m、体重はオスで100〜150kg、生息数は300頭ほどと推測されています。

トラと会話していた素敵な飼育係

1960年(昭和35年)6月、私は上野動物園の飼育係に採用され、伊豆大島の片田舎から上京しました。早速飼育係全員について動物園恒例の1日ずつの飼育実習が始まりました。中でもびっくりしたのはトラやヒョウなど飼育係の本間勝男さんが猛獣たちと会話しながら作業をすることでした。

アムールトラは1958年に雌雄各1頭が搬入され、オスがワン(王と言う意味)メスはシュフ(主婦の意味)と命名されていました。動物園では朝室内から出し、夕方、放飼場から室内に入れていました。本間さんはその時1頭ずつ猛獣の愛称を呼びながらドアを開けるのです。

例えばメストラのシュフの場合、まるで人間相手に話しかけるように。

おーい、ごはんの時間だぞ・・・シュフや入っておいで~~~。

すると、彼のやさしさしい呼びかけは本能的に判るのでしょう。シェフはまるで本間さんに甘えるように喜び勇んで室内に飛び込んできます。

オー来たか! 今日も元気だったか・・・。

と再び声をかけます。

これまで飼育係は大声を出さずに静かに動物を観察するものだ、とばかり考えていました。動物舎の開閉も静かに行い、動物をなるべく刺激しないように飼育するのが良いと思っていたからです。ところが本間さんときたら、ニコニコと微笑みながら大きな声でトラと会話しているのですからびっくりです。

本間さんは山形県の出身で、戦争中招集されると関東軍に所属し陸軍兵長として旧奉天(中国遼寧省の瀋陽)の部隊で終戦の残務整理をしていたそうです。しかし、1945年8月終戦の時、ソ連軍が侵入してきて、捕虜となりウズベク共和国のタシケントで3年間過ごしました。軍隊に5年、捕虜3年です。8年間も辛い日々を過ごしたわけです。本間さんは捕虜生活の経験と同じ囚われの身である動物園の動物がオーバーラップしていたのかもしれません。

トラは一腹で4頭もの子どもを出産しますが、シュフは11回も出産して44頭の世界記録をつくり動物園の人気者になりました。シュフはいつも温かく話かける本間さんを大好きだったと思います。私は飼育実習中に暇があると本間さんの猛獣用の餌の入ったバケツを持たせてもらいました。

やがて1972年日中友好の動物使節として中国から2頭のジャイアントパンダが寄贈されました。中国が外国にパンダを寄贈したのは初めてのことで、この後来日しているジャイアントパンダは全て賃貸契約で借り受けています。現在上野にいる両親の2頭のパンダとその子ども(レイレイ、シャオシャオ)もやがて返還しなければなりません。

さて、日中の友好使節の来日については当然当時最高の飼育係と獣医師を係に任命し万全を期して飼育することになりました。そこで飼育係に白羽の矢が立ったのが本間さんです。本間さんの優ししい人柄と軍隊と捕虜生活で苦労した経験を動物園の古賀忠道園長、中川志郎飼育課長、中江川嵺(りょう)飼育係長は揃って彼を推薦したことでしょう。本間さんの人柄は飼育係全員が良く知っており誰一人反対する人はいませんでした。

名まえを募集しランランとカンカンと命名されたパンダは全国民の圧倒的な支持を得ていきました。もちろんパンダ担当以外の飼育係も見ることはできませんでした。一般の入場者は2~3時間待ってみられる時間はわずか30秒間でした。私は従弟が見たいというので動物園の宿直の時に、朝6時頃正門前に行くとすでに50人くらいの人が並んで待っていました。それから3時間ひたすら待っていました。

警備員は一日中拡声器で

止まらないでくださ~い

を連呼していました。

パンダの来日前、上野動物園の入園者は300~400万人ほどでしたが、一挙に2倍の700万人に増加したのです。現在も世界中でパンダを中国から借りた動物園の入園者数は大幅にアップしておりパンダが世界中の人々から愛されていることがわかります。

当時の飼育課長中川志郎氏はパンダ課長と愛称が付けられ、チームのキャプテンとして本間さんと優秀な動物病院スタッフをまとめ見事に2世誕生に漕ぎつけたのでした。

小柄な巨人は師匠の落合正吾さん

昔の飼育係は猛獣係の本間さん、チンパンジーの山太さん(山崎太三)、カバの西山さん(西山登志雄)、などと動物名が先に来てその後に担当者の名前がありました。これは全国の動物園でも通用し、関西では神戸動物園の亀井一成さんはチンパンジーの調教、名古屋の浅井力三さんはゴリラに芸を仕込んで有名になりましたが、両人共にゾウの飼育でも有名でした。もちろん、ゾウの落合正吾さんもその一人です。落合さんは1943年(昭和18年)4月4日上野動物園に臨時採用で入り、1945年(昭和20年)3月31日付けで正式採用されています。

飼育実習中、順番で落合さんに付くと早速

川口君ゾウ係にならないか、他の動物はいろいろと変わるがゾウ係は一生変わらなくていいよ。何、危ないこともあるが俺がきっちり教えるから心配ない。

と口説かれたのです。大島から上京したばかりで動物に関する知識はほとんどない私は、動物園の独身寮に一緒に入居していた中川志郎(後に園長)先生にどうしようかと相談をしました。

そうか、やる気があるなら俺に任せておけ、と二つ返事で早速係長と相談したらしく、飼育実習が終了後ゾウ係に任命されたのです。それもそのはず実際にはゾウ係は危険で誰も進んで手を挙げる人はいなかったらしいのだ。

ゾウ係になった半年後の翌年4月14日に井の頭動物園の落合さんの同僚が花子に踏まれて殉職した。井の頭からの緊急電話ですぐに井の頭に行き、遺体と面会した落合さんはさすがにショックだったようだ。戻ると「お前も気をつけてやれや」と一言私に言った。現在、ゾウ担当者は必ず複数で接することになっているが、当時ゾウの担当は落合さんと私の二人なので1人が休めば後は1人であった。最初の頃は、落合さんの休みの時は佐藤昭二さんが来て、ゾウを放飼場に出す様子を監視して頂いた。

落合さんは身長155㎝くらい、体重が52㎏程の小柄の方でした。当初、競馬の騎手を目指したそうですが、これでも体重制限オーバーで叶わず旧岩崎邸で馬丁をしていましたが、動物園の臨時職員の募集で採用されたそうです。

風貌はしわだらけの老け顔で会ったとき60歳に近いと思っていたが、後で逆算すると40代後半の働き盛りだったのだ。小柄でも貫禄十分の方でしたがこれも動物の扱いに長けていたからであろう。

当時はゾウチームに入ったのでゾウの他にシカ舎の担当もしていた。ある日、シカ舎の掃除をしていた落合さんが戻ってきて

おい、川口ちょっと来てくれや、シカが通路に出たから戻すのを手伝ってくれ!

と言うのだ。二人でシカ舎に行くと入口に戸板が横になっていた。そして反対側から落合さんがシカを刺激しないようにゆっくり両手を広げて歩いて来てすんなり戻すことができた。なるほど動物が逃げたら慌てず逃げ道をふさぎそれから戻す方策を考えればいいのだ、これは良い経験をさせてもらった、と思った。

乗り方を私に教えるために数回乘って見せてくれたが、ひらりと飛び乗って見せました。耳を掴んで前足をあげさせて乗るのですが、インディラは私の場合、意地悪く体から離すように外側に大きく上げるので乗りにくいのです。その後しばらくしてやっと一人で乗れるようになりました。首に乗って動かせるようになると初めてゾウが私の言うことも聞いてくれたのです。

落合さん大活躍

1967年(昭和42年)年3月24日、アジアゾウのインディラが同居していたジャンボとケンカをして、運動場から堀に突き落とされました。インディラは手すりに鼻を巻き付けて体を引き上げ、なんと入園者側の観覧通路に出たのできす。この騒ぎに取材のヘリコプターが上空を旋回したためゾウはびっくりして簡単に戻れなくなった。

この時タイミング悪く当時のゾウチームの班長菅沼さん、中井(太田)さん、石川さんの3人は、動物園にほど近い落合さんの自宅に、2頭の闘争が激しいのでどのように対応するのが良いか相談に行ってゾウ係は留守でした。すぐに戻ったもののゾウ舎前でウロウロするインディラをどうすることもできません。そこで落合さんに収容するのを手伝ってほしいと要請したのです。この要請に快諾した彼は丹前を羽織ったまま迎えの車に同乗してゾウ舎にきました。すぐに手慣れた手鉤(フック)を手にするとスタスタと声をかけながらインディラに近寄りゾウの鼻を撫でて落ち着かせた。そして、ゾウ舎内の倉庫からベレー(両足を繋留するチェーン)と長いチェーンを持ってくるように指示したのです。彼はこの間インディラに声をかけ動かないように保定し、ベレー持ってくるとゾウ係がすかさず両前肢を繋留しました。飼育下のゾウは前足を繋留されると観念しておとなしくなるのです。それから長いチェーンを使って放飼場内に引っ張り込んだのですが、この間わずか10分間だったそうです。その背景には移動動物園で北海道までインディラと寝食を共に過ごした間には類似のアクシデントもあったと思われ、まさに経験の見せ所であった。

ところが、この事件には壮絶な結末が待っていました。事件発生から8日目に落合さんが逝去したのだ。落合さんは長期療養になる前に、弁当を持ってきても食べられず、おい、食欲がないから食えや、と私たちに回していた。胃がんの末期症状で食事が取れなく体重は40㎏を切っていました。極度の緊張が死期を早めたと思われ、皆でその死を悼んだ。亡くなる前に奥さんの手を握りながら

オレは幸せものだよ。最後にインディラの面倒を見てやれたもの、本当にしあわせ者さ・・・

彼のような豊富な経験を持つ人は突発事件がある時にそれまでの経験を駆使して対応しているのです。とりわけ、ゾウのような特殊な動物の取り扱いには貴重な人材だったと思うのです。惜しむらく54歳の早世でした。

 

写真:多摩動物公園のアムールトラ
撮影者:藤本卓也 氏

 

タイトルとURLをコピーしました